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 今日はこちらに お招きいただきありがとうございます。今日何を説教するかと祈ったとき、急に「セルフ・イメージ」という言葉が浮かびました。確かに自分のイメージは本当に大切なものです。自分のことをどう思うのかは、ほかの人との関係や神様との関係に強い影響があります。しかし教会にも一般社会にも、その問題を考える機会は、ほとんどないと いっていいかもしれません。

聖書の旧約聖書にも新約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令があります。クリスチャンとして私たちは隣人を愛することを考えることが多いのですが、自分自身を愛することはもっと難しいことです。

それはなぜでしょうか?自分は愛すべきものではないと言う考え方があるかもしれません。もちろん、神様が自分を愛してくれていることは、私たちはよく知っていますがなぜこんなに自分を愛してくれるのでしょう?または、「神は愛である」から、やはり神様は私たちを愛するしかないのでしょうか? 

でも、聖書によると、神様は私たちを愛することを強いられたことでなく、自発的に神様は私たちを愛したいと思っておられます。その愛は私たちがこんな人間であるにも拘わらず愛してくれる、というのではなく、私がこんな人間だからこそ、神様は私たちを愛してくれるのです。

自分を愛すべきではないと考える理由は三つあります。一番目は、自分の外見がよくないというイメージです。これは「ボディ・イメージ」とよばれます。二番目は、自分が駄目な、無益な人と考えることです。これは心理的な「セルフ・イメージ」と呼ばれます。さらに三番目に、クリスチャンとして、霊的に駄目な人と考えているかもしれません。自分が罪人だから、神様との親しい関係は全く出来ないという考え方をしています。これを「スピリチュアル・イメージ」と呼びます。

この三つについて今日は考えたいと思います。聖書を読めば読むほど、聖書の人間の人生の意味は非常にポジティブだと思います。ヨシュア、ダビデ、エリヤ、パウロを見ると、セリフ・イメージがとてもいい人でした。モーセまでも、奉仕が始まる時、怖くて話せないが、百万人の国を支配するために自分に自信をもつひとになりました。この三つのセルフ・イメージの問題を考えて、聖書を開きたいと思います。

健康的

最初に健康について考えます。

ダビデ王は旧約聖書の英雄でした。戦士として、詩人として、王者として有名なひとでした。聖書によると、彼は赤い顔で、格好いいひとでしたが、王さまの顔ではありませんでした。第一サムエル記の16章に、主が王を選ぶときに、サムエルは、ダビデのお兄さんがもっとも王らしいと思いました。神様はサムエルに「ひとはうわべをみるが、主はこころを見る」と教えました。

実際に、サムエルがダビデの兄たちを見て、このなかの、だれが王として選ばれた者だろうと、考えている間、ダビデ自身はそとで羊の番をしていました。ダビデは末っ子でした。普通の場合、末っ子はかわいがられて、家に残ります。皆が家にいる間、末っ子が仕事をしていることはほとんどありません。家族がダビドのことを忘れたようです。「本当にほかの息子いないのですか?」

でもこのダビドは素晴らしい詩篇139を書いた人でした。

それはあなたが私の内臓を造り、

母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。

あなたは私に奇しいことをなさって、

恐ろしいほどです。

私のたましいは、それをよくしっています。

彼の家族状況や、ほかの人の意見にも拘わらず、ダビデは自分のボディ・イメージになにも問題はありません。彼は自分が神様の作品であるとよく知ってました。それは傲慢なことですか?神様がわたしを造ったから感謝するのですか?ダベデはこの詩篇で感謝しています。傲慢なことではなくて、正しいことです。

創世記1章27節に書いてある通り、人間は神様のかたちで造られたことをダビデはよく知っています。自分が奇しく神様のかたちで造られた者だと言う正しいボディ・イメージがなければ、神様に対する正しいイメージを持つこと出来ないと思います。あなたは神様のかたちで造られたことを、よく理解していますか?

最近貰ったこの聖書の帯に雅歌の言葉が書いてあります。この雅歌にも、正しいボディ・イメージを持つ人がでてきます。雅歌の女性は1章5節で

私は黒いけど美しい。

や2章1節で

私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。

と自分のことを述べています。なぜならば、愛されたということをよく知っているからです。クリスチャンとして、雅歌はイエスと教会との関係の比喩だと考えられます。教会と言うのは私たちのことだと、言えると思います。私たちはイエスによって愛されているから愛するべきものなのです。

このボディ・イメージで大きな問題なのですから、もちろん、すべての人が、今日の説教を聞いただけで解決できるものではありません。しかし、後で神様があなたの中に彼の形をしめすように一緒に祈ること出来ます。

心理的

次は心理的な「セルフ・イメージ」です。

イエス様の一番従いにくい命令はマルコ12章31節に書いています、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。この命令の意味合いは、自分を愛さないといけないです。更に、自分をちゃんと愛さないと、隣人を愛することは出来ないと思います。何人かの牧師や宣教師やクリスチャンの人がほかの人を世話するばかりで、自分を世話する時間がないばいもあります。疲れてしまって、ほかの人を愛することが出来ないということになってしまいます。

多くの人は、自分を愛することは隣人を愛するより難しいことです。こういう人は自分に対してセルフ・イメージが低いです。「私はそれを出来ない」か、「私はいつもあれをしてしまう」か、「もし私はその人のような人だったら」か、そういうことを言っています。自分の行動を嫌いになります。しかし、人は人の行動ではありません。

自分を愛する気があるかないかというは問題ではありません。個人的に、私をいつも励ますことはローマ人への手紙5章8節です。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことになり、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

私たちがいいことや悪いことをしたからではなく、神様を喜ばせたか喜ばせなかったかでもなく、私たちを愛したのです。私たちの立場から、愛するべきと思わないかもしれませんが、キリストの死の立場を見ると、私たちはその死に値しました。その死で、「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです、あなた方を神のみもとに導くためでした。」キリストはあなたの価値を考えてその道を選びました。あなたはそれに値しました。

霊的

三番目は霊的なセルフ・イメージ、または神様との関係です。この関係を考えるとき、どんな言葉が浮かびますか? 「親しい」あるいは「恥ずかしい」でしょうか?または「お父さん」あるいは「判断」でしょうか?

聖アウグスチンという五世紀の神学者によると、人間は「罪の塊、罪悪の万有」であるといわれます。皆がひどい罪を犯してしまうのは、仕方がない、とかいていました。今日までもこの意見が西洋の教会に本当に広範なため、私たちも影響を受けるかもしれません。この結果、私たちのどんな行いでも罪だと思い込んでしまいます。もし罪を犯してしまうならば、本当に神様を喜ばせることが出来ません。

しかしこういう意見は西洋の教会の伝統だけです。ギリシャ語の東洋の教会で、もう一つの伝統があります。東洋の教会で神様との関係のイメージはユダヤ教と似ている創世記の「神様のかたちで造られた」のです。アレキサンドリアの聖キリルによると、イエスと共にいる私たちは「神様の気に入って、神様の子供たちと呼ばれました」。

聖書によると、私たちの行いは神様を喜ばせるという考え方が強いものです。ノアは「正しい人であって、その時代にあっても全き人で」ありました。イエスが来る前に、ルカの福音書1章のゼカリヤとエリザベツは「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めをを落度なく踏み行ってい」ました。

  

パウロも、ピリピ人への手紙3章で、自分が律法によって正しいと言っています。しかし、罪を犯さなくても、神様との関係は正しくないこともあります。パウロによると、自分の行いにより義とされたのに、イエスさまと親しくなれなかったため、その行いは無意味だ思いました。パウロと神様との関係の基本は、行いをすることではなく、あるいは行いをしないことでもなく、イエスさまと交わることだけでした。

罪は大きな問題ではないといっているのではありません。もちろん罪は一番大きな問題で、解決しないといけないことです。イエスさまによって解決があるのでとても感謝します。しかし、罪の問題を解決したなら、神様との関係は罪で定められることはありません。あなたはあなたの罪ではありません。神様は今あなた自身と関係をつくりたいと思っておられます。

その上、神様はあなたを友達と呼びたがっておられます。ヤコブの手紙によると、アブラハムは神様を信じ、その信仰が彼の義とみなされて、彼は神の友とよばれたのです。ヨハネの福音書15章で、この地球に降りてこられた神様の子イエスさまは私たちをしもべではなくて、友達と呼ばれています。でも私たちはよく神の友というよりは、しもべとして生きているように思われます。

神様は遠くあり、しもべの主人だけであるというイメージは宣教師も考えてしまいます。これはヨセフ・クークという宣教師のあかしです: 

私に対する要求は高く、評価は低い。そのような、とうていおよびもしない神を思い描いてきた。私にとって、そのような存在の神の御怒りの下で生きる以外に、他の選択肢はありませんでした。神はいつでも私に対して不機嫌な顔をしていた。一日中、神は私に小言を言った。

「何故もっと祈らない?なぜもっと証しない?いつ自分を訓練するのだ?そんなくだらない考えに耽った言い訳をどうするつもりだ?これをしなさい!これはするな!与えなさい!告白しなさい!もっと働きなさい!」

神は、私とぶつかるために自分の愛を利用していた。彼はその手に釘のあとを見せ、私をにらみつけて「なんでもっとよいクリスチャンにならない?忙しく働き、自分がすべきことをしなさい」と言う。

いつも神は本当に私をチリ以下の者と考えていた。彼は私を愛していると言うばっかりだった。しかし、神のよい評価を受けるただ一つの方法は、本当の私を砕いてもらうことだけであった。本当のことを言えば、神様は私の考えも、感情も、決断も、好きなことはほとんどなかった。

このような人はやはり神経衰弱になって引退しました。神様の友ではなくて、神様のしもべとして生きていました。神様のイメージは自分のイメージを影響しました。もし神様が彼を好きでなかったら、彼も自分を好きになれませんでした。

もし神様が彼を受け入れたことが分かったら、クーク先生は自分の中に神様のかたちを見ることができていたかも知れません。皆さんのたましいが神様に受け入れられていることが、みなさん、ひとりひとりに、確信が持てますように祈っています。アーメン。

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