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主の宣教、教会の宣教、クリスチャンの宣教

聖書個所:2コ5:17−21

聖句:エレ31:20、2コ5:18

私は今日、聖書のツアーをしたいと思います。実は、今日の個所が聖書全部のはずですけど、全部を読む時間がなかったので、この二つの聖句を選びました。一つめは週報にかいていません。私の方が間違いましたが、一つ目の個所はエレミヤ31章の20:「エフライムは、私の大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、私のはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいれない。」ちょっと言いにくいけれど、はらわたがわななく神様がいつも、必ず、かれの民族を思い出しています。それは一つ目の個所。二つ目の個所は滝沢さんが読んでくださいました第二コリントへの手紙5章、「和解の務めを私たちに与えてくださいました」でした。

私は今、「宣教師」という偉そうな役割をもって日本へ行く準備をしています。実は三年間準備していますが、いよいよ「行く」準備ですね。「宣教師」として。「宣教」は「宗教を述べ伝える」という意味ですので、「宣教師」というのは「宗教を教える教師」です。それを聞いて、私がちょっとこわくて、「私が宣教師だ」というのは、なかなか言いたくないでしょう。しかしそれよりも、この第二コリント5章を覚えて、「宣教師」というのは「神様と人間の間で和解を務める人」と言えばいいですね?そういう意味の「宣教師」は私が鼻高く出来ます。神様が和解の務めを私たちに与えてくださいましたからです。しかし聖書の同じ節で、「これらのことは全て、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させました」と書いています。私が、又は全てのクリスチャンが「宣教師」の名目(めいもく)をつければ、それは神様がまず和解させてくださったからです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

神様の宣教

今日は聖書のツアーをしたいとさきほど言いました。忘れていません。ツアーをすればするほど、ある繰り返しが出てくることにきずきます。聖書の中での繰り返しは「きり離せない神様」の物語です。聖書の繰り返しはこうです:「あなたがたが私の心を痛めた・だがあなたを愛しているから、きり離せない・和解をしたい」と言う神様の声です。新しい歌で、時々マット・レドマンの歌が歌えます。最近出ているマット・レドマンの歌は「You never let go」というきり離せない神の愛についての歌です。亀岡さん、どうか訳して下さい。切り離せない。「You never let go」。その歌は聖書全部にわたって響くと思います。

創世記の初めを読むと、アダムとエバは人類の代表としてポカします。今の我々がアダムとエバのせいで死にます!ありがとうよ、アダムとエバ。それはとんでもないことです!しかし、かれらが罪を犯したばかりの時に、神様が探しにいらっしゃいます。「あなたは、どこにいるのか」と仰(おお)せられました。神様は全知全能ですので、どこにいるかよくご存知です。しかし、実は神様のはらわたがわなないています。叫んでいますよ。「どこにいるの?」というのは「離れたくない!もう一度仲良くしたい!」

しかしまず、神様が罪の結果を説明します。間違いない、罪は結果があります。土地はのろわれてしまいました。しかし神様はやっぱり「はらわたがわなないて」がみましたが、かられているアダムとエバにして、をすよりも、まずをみしてきました。アダムとエバは裸で恥を感じたため、神様が動物を殺して毛皮を与えてくださいました。この世の最初の死は罪人のためでした。しかし神様と人間の間の和解は動物を殺すぐらい大切のものであるからです。毛皮(けがわ)は神様のきり離せない愛の印でした。

イエス様が「敵を愛する」という命令をした理由が分かりますか?私たちが神の敵でいた時、神様が私たちを愛したからです。それはきり離せない、最初の一歩をふみだす神様です。マタイ5章で、イエス様がこう教えています:「祭壇の上に供え物を捧げようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」それは厳しいではないか!「兄弟を憎まれていると礼拝をやめなさい」ということです。大変な命令です。もちろん自分が兄弟を憎んだら神様を礼拝できませんが、兄弟に憎まれているとしょうがないでしょう?兄弟の和解が神様の礼拝より大事なことじゃないでしょう?いや、本当にそうですよ。なぜならば、敵まで最初の一歩をふみだす神様に礼拝をしたいなら、私たちも敵まで最初の一歩をふみださなければなりません。

さあ、アダムとエバの話を戻りましょう。神様は罪を犯したばかりのアダムとエバを探しにきて下さいました。痛みを感じても、関係を直すために最初の一歩をふみだしました。それは恵みですね。スコットランドの小説家ウォルター・スコットはある日、犬を見て、石を犬に投(な)げました、その犬は足をけがしてしまいました。しかし、犬はスコットに戻って、スコットの手を嘗めたのです。神様の愛はそのようなものです。罪の中の私たちを捜す愛です。「あなたがたが私の心を痛めた・あなたを愛しているから、きり離せない・和解をしたい」という愛です。

アダムとエバの話の後はカインとアベル。カインがアベルを殺したすぐあとに、神様がカインを探して話しました。もう一度、罪の結果を説明します。そうしてもう一度、助けます。カインに印を授けます。それをよく分かって下さい。殺人者のカインを守るために、約束の印を授けました。

そしてノアの時代でも、もう一度神様の「心を痛められた」。罪の結果で、大洪水でみな死に絶(た)えました。しかし、神様は和解の道を探しました。再び地をのろうことをしない、又は再び生き物を討(う)ち滅(ほろ)ぼさないという約束をしました。契約をしました。そして約束の印を授けました。虹は契約の印となりました。

出エジプト記は同じ形です。イスラエル人はいつもつぶやいていました。「エジプトでは肉とパンで満ち足りていた。そこで死んでいたらよかった!」神様につぶやくのは罪で、その罪の結果がありました。「民衆を与えた地に導きいれることは出来ない」ということになりました。しかし、神様はつぶやきに溢れる恵みを示しました。マナや鶉(うずら)や石からのお水など、自分の栄光を示すまで祝福しました。そしてつぶやくイスラエルと契約しました。とめどない恵みです。

だから神様は「宣教師」である、と言っていいと思います。ご自分のが罪をしても、愛、許し、和解、契約のメッセージを与えてくださいます。「あなたがたが私の心を痛めた・だがあなたを愛しているから、取り離せない・和解をしたい。」

しかし、どうなりますか?イスラエル人は当然のように神様に愛されました。予言者の時代、イスラエルは神様を拒みました。その時、主がエレミヤにこう言いました:「エフライムは、私の大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。」エフライムはイスラエルに差して枕詞です。神様はイスラエルを子と呼びます。子供はどのぐらい親に迷惑をかけても、親の子だということは変わりません。どんな親も自分の子供をきり離すことはできません。

でも、イスラエルのほうが父なる神様を無視しました。その結果、神様の声は400年間黙っていました。旧約聖書の終わりから新約聖書の初めまでは400年間予言がありませんでした。そしてバプテスマのヨハネが来て、悔い改めと罪の許しのメッセージを述べ伝えました。罪の許しというのは、つまり神様との和解の機会です。神様の国が近づいていました!

その後、ついにイエス様がいらっしゃいました。神様ご自身が罪人と和解するためにこの世に来て下さいました。放蕩息子などの例え話で神様のきり離せない愛を説明しました。そして、私たちのために死んでくださいました。私たちの罪は神様の心を痛めました。私たちの罪は酷い結果があります。しかし、神様は和解の道を探しました。「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ」ました。アダムの時、毛皮は神様の愛の印でした。主はカインに約束の印を授けました。ノアでは、虹が約束の印でした。そして、カルバリの丘で、もう一つの神の愛の印がありました。十字架の印でした。

「宣教」というものはイエス様の後のことではありません。「あなたがたが私の心を痛めた・あなたを愛しているから、きり離せない・和解をしたい。」それは最初から神様のメッセージでした。今でも神様のメッセージです。今日も、罪の許しと神様との和解が自由にいただけます。素晴らしいことではないでしょうか?

教会の宣教

しかし、イエス様の復活の後、教会にバトンタッチをしました。「父がわたしをお遣(つか)わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 教会に、つまりクリスチャンの皆に「和解の務めを与えてくださいました。」神様の宣教とイエス様の宣教と教会の宣教は全く同じことです。

教会はどうやってこのきり離せない愛のメッセージを伝えればいいでしょうか?和解の務めはどんなことでしょうか?私たちの中に和解を示すことから始めれば良いと思います。それは最初のことです。私たちと神様の間に和解を示すのは二番のことです。不思議だと思われていますが、「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」とイエス様が命じました。盛永先生がよくおっしゃる通り、教会の中の分裂とクリスチャンの間の喧嘩は大変な罪です。

なぜそんなに重要(じゅうよう)なことなのでしょうか?宣教に関わりがあるからです。教会は神様の愛で生きる社会です。教会の外の人は神様の愛を直接、見ることは出来ません。しかしクリスチャンの間に愛を見られます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」愛し合う「ならば」。それは難しいことです。

聖書のツーアを続きます。聖書の手紙を読めば、多くの手紙はユダヤ人と異邦人が同じであることについて書いています。それは聖書の残りのテーマです。「神様の前に同じとなりましたので、一緒に働きなさい。」コリント、ロマ人、ガラチヤへの手紙はその目標です。教会の中の和解を守るのは本当に大事なことですよ!なぜならば、自分の中に和解を示すことが出来なかったら、神様との和解に招くことが出来ません。教会の証を無にするからです。最初は、教会の中に和解に務めてしましょう。

そして自分たちの間に和解を示すことができれば、神様との和解を示すことできます。賛美と礼拝で神様の愛をたたえます。祈りと執り成しで和解を務めることが出来ます。傷つけても、人をきり捨てない奉仕と愛で神様のきり離せない愛を示すことが出来ます。それと同時に神様の愛と許しのメッセージを口で述べ伝えることが出来ます。それは教会の生き甲斐ではありませんか?教会はクリスチャンのクラブではありません。神様の宣教の道具です。その宣教のために遣わされたのです。

クリスチャンの宣教

神様がイエス様を遣わして、イエス様が教会を遣わして、そして教会がクリスチャンを遣わします。神様の宣教は段々広がっています!私は今日、この教会から遣わされています。しかしクリスチャンの皆も遣わされています。宗教生活や個人生活や職場を区別することはできません。クリスチャン各人はそれぞれの状況で神様の愛と和解のメッセージを持って行きます。職場で、大学で、家庭で、宣教します。宣教するというのは宗教を述べ伝えるわけではありません。神様と一緒に働いて許しがいただけるという知らせを示すことです。神様が罪を犯す人間から離れたくないということの知らせです。神様との和解が出来るという知らせです。福音は「いい知らせ」という意味です。「あなたがたが私の心を痛めた・あなたを愛しているから、きり離せない・和解をしたい」というしらせです。それは福音です。最初から神様が招いてくださっていることは、私たちが今神様とに、他の人にきを広げることです。

そのような宣教はだれでも、どこでも出来るものですが、神様がよく人を他の文化や他の場所に送り出して行くと言われます。アブラハムに「あなたの生まれ故郷、(こきょう)あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と命じました。神様はどこへ行くということを説明しませんが、どこから出るかは、はっきり言います!マタイ、マルコ、ルカの福音書の終わりで、「出て行きなさい」という命令があります。イエス様ご自身は天国から出て、この地上にきて下さいました。宣教がにするのならば、「出る」、「行く」、つまり「動く」ことが大切です。

神様はこの世を愛します。心を痛めても、人が罪をおかしても、創造した人間からは、父親のように離れないのです。許しと和解に招いてくださいます。私たちもその招きの使節(しせつ)として和解の務めがあります。教会の和解に努めて、人間と神様の間に和解を務めて、この世に出かけます。それがクリスチャンの生き甲斐です。それが宣教です。アーメン。

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