マルコ5章:おまえの名は何か?
今日説教にお招きくださいましたこと、誠にありがとうございます。少し自己紹介をします。私は去年の9月からこの教会に派遣神学生として通っています。そして、将来は日本で宣教したいと思っています。 派遣期間は今月末で終了ですけれど、2月か3月の日本への出発前に、もう一度、皆さんにお会いできると思います。この8ヶ月間の教会生活は本当に恵まれていました。皆さんがこの時期に温かく受け入れてくださったことを深く感謝します。本当にこの教会で、私は神様の家族のメンバーであることを感じることができました。つまり、この教会は人間関係を強く作るのに長けている教会です。だから、今日の箇所はよく当てはまると思います。
この教会では最近マルコの福音書から学びを始めました。盛永先生がマルコ1章を紹介なさって、そして先週はバプテスマのヨハネの話を聞きました。来週、ヤング先生はマルコ1章を続けられますが、今週はちょっと5章に飛びたいと思います。なぜならば、この教会でマルコの福音書を学ぶと分かる前に、私は個人的な聖書の学びの時に、すでにマルコの福音書を読んでいたからです。ギリシャ語の試験のためにマルコ1章とマルコ6章を学んでいましたが、私の心を打ったのは、このマルコ5章でした。だから、今日一緒に学ぶことが出来て本当に幸いと思います。
この5章の箇所は、4章でのイエス様が湖の風を静められた話に続く箇所です。イエス様は風をしかりつけ、静められたので弟子たちは、それを見て互いにこう言い合いました。「いったいこの方はどういう方なのだろう?」
今日の箇所5章を読むと、その疑問がすぐに答えられているのを見ることができます。
風を静められた後、イエス様は湖の向こう岸に行って、ゲラサ人の地に行きました。ところで、「ゲラサ」という所はどこでしょうか?「ゲラサ」という町は、たしかにありましたが、それは湖から50キロでしたから、この箇所の現場と考えることは難しいですね?マタイの福音書を読むと、「ガダラ」と書いていますが、ガダラには険(けわ)しい崖(がけ)がないから、そこもこの箇所の現場ではないでしょう。ある文書には「ゲルゲザ」という地名が出てきます。このゲルゲザというところはちょうど湖のそばにある町で、それはこの箇所の現場と考えるのにちょうど良く、また、マルコはこの地方をあまり知らなかったから、名もない「ゲルゲザ」のかわりに有名な「ゲラサ」という地名を書いてしまったのではないか、と私は思います。まあ、いずれにしても、イエス様は湖の東側へ行かれました。そこは異邦人の住んでいる所でありました。
その湖の東側に着いた途端、悪霊に取り付かれた人にイエス様は出会いました。 その男の最初の発言は驚きものです。イエス様を「いと高き神の子」と呼んでいます。「いったいこの方はどういう方なのだろう?」「いと高き神の子」です。しかし、誰かこの男にそれを教えたでしょうか?マルコの福音書をとうして読むと、誰かがイエスをキリストと告白する時にはいつも、「誰にも言わないように」と命令されます。マルコの福音書でイエス様のアイデンティティは秘密です。ではどうやってこの秘密が、彼にわかったのでしょうか?コリントの信徒への手紙1で「聖霊によるのでなければ誰も『イエスは主です』という事は出来ません」と書いてあります。だからこの時も、聖霊が先に行って、この人の内に働いていたに違いありません。それと同じように、私たちが伝導する時にも、聖霊様がいつも私たちの前に行っていて、一番暗いと思ったところに光を輝かせてくださっています。事務所にも。学校にも。家庭にも。「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」
さて、続いてこの男は何と言っているでしょう。新改訳では「いったい私に何をしようというのですか」と訳されています。新共同訳では「かまわないでくれ」ですが、マルコのしゃきしゃきしたギリシャ語では「何か、私と、あなたと?」と書いています。グエルリッヒという神学者が「私とあなたとお互いには何かありますか?」と訳します。あるいは、「私とあなたの関係は何でしょうか?」です。この、全く人間関係を持っていないこの人は、実は人間関係を求めて叫んでいるのでしょうか。
そして、3節から5節まではこの人の状況がはっきりと描(か)かれています。彼は一人暮らし、人間関係を持たない状態で住んでいます。創世記で神様は「人が一人でいるのは良くない」とおっしゃっています。この聖句はよく結婚のことと関連して考えられますが、意味はそれより広いと思います。人間関係を持っていない状態で暮らしているのは良くないと、神様が言うのです。
この人は一人で暮らしているだけではなくて、墓場(はかば)に住んでいました。死んでいる者の中で生きている状態です。しかし私たちの主イエス様は死の中にさえ入っていかれるお方です。この汚れた霊に取り付かれた人は汚れた豚と汚れた墓とともに住んでいます。そこへ聖なる方・イエス様が入ってこられます。そしてその汚れはイエス様を汚すことなく、かえってそのイエス様の清さが汚れを清めるのです。
この人はまた「昼夜となく」生活していました。小山康介という宣教師によると、「暴力的に忙しい生活」をし、「創造者が決めた、つまり、原始からの生活の順序を無視しています」。そして「逆説的に、この暴力的に忙しい生活は麻痺(まひ)となります。」と述べられています。実はこの麻痺は私たちの社会にも関(かか)わります。現在の社会は「暴力的に忙しい」と言っても良いでしょう。地下鉄に乗ると、携帯電話の広告(ほうこく)さえ見られます。今の携帯のセールスポイントは、事務所を離れても携帯で仕事ができることです。もう事務所と家を区別する必要はありません!昼夜となく生活をできます!今日の箇所が私の心を打ったのは、この話が二千年前の人についてだけではなくて、現在の私たちのことについても語っているからです。聖書がまるで鏡(かがみ)のように、この人の苦しみの中に私の姿が映し出されます。
この人を見て、イエス様は何をなさったでしょうか?イエス様が彼の名前を聞きました。ある宗教では、お祓い(はらい)をする時悪霊の名前を調べる事は大切だそうですが、イエス様がかつて一度も悪霊の名前を聞いたことはありません。この場合もイエス様は悪霊に話すのではなくて、悪霊にとりつかれた人に話しかけます。イエス様はこの人間関係を持っていない孤独(こどく)な人と関係をつくりたかった。ヘブラヤ語によれば、イエス様は彼にシャロムをあげたかったのです。シャロムとは、よく「平和」と訳されていますが、シャロムはもとは正しい人間関係のことを示しています。シャロムは「何か、私と、あなたと?」という7節の質問の答えです。 「私とあなたの関係は何でしょうか」?いい関係か、悪い関係か、もしくは全く何の関係もないのでしょうか?あるいはこのイエス様だけが下さることのできる、平和という意味をもったシャロムという正しい人間関係ですか?
私が日本語の授業を受けていた時、早くから「お元気ですか」という言い回しを習いました。教授先生はよくその言い回しをこのように説明しました:「あなたの気は整っていますか」。それは人のする質問でしょう。「あなたの体の中の状態は整っていますか」。しかし神様のシャロムの質問は違います。「あなたの人間関係は正しく整っているか。」あなたの中にある事ではなくて、あなたと周りの人との関係、そして神様との関係は整っているか。神様がカインに「あなたの弟(おとうと)アベルはどこにいるのか」と聞くとき、情報を求めることをなさいませんでした。あなたの弟カインの関係のことを聞きます。それがシャロムの意味です。
だから、イエス様が名前を聞くと、その人はその人間性を取り戻しました。聖書では、名前は生涯の目的を示しています。ヤコブは神と共に戦うイスラエルという名前になりました。ペテロは教会の岩という意味で、イエスは人間を罪から救う人という意味です。しかしこの悪霊に取り付かれた人は自分の名前を忘れてしまいました。人生の目的を忘れています。
かれの答えの「レギオン」と言う名前を彼の名前ではなくて、彼の中に宿る悪霊の数を示す名前です。かれはもう自分のアイデンティティを持っていません。レギオンはローマ帝国の六千人の大隊(だいたい)でした。その時代のイスラエルはローマ軍のいくつかのレギオンに占領されていて、この人の中にも、六千の悪霊は占領軍として宿りました。六千の違った霊から影響を受け、それに従いました。彼の世界は内も外も混乱し、 占領された世界でした。その世界で自分のアイデンティティを見つかれませんでした。我々も、イギリス社会で存在している日本人か、日本社会に入りたいイギリス人が混乱された世界にアイデンティティをどこから見つけますか?この人のように無数の影響の締め高(しめだか)ですか、又は「いと高い神の子」との関係から見つけますか?
さて悪霊は豚に入れてくれと願って、イエスはそれを許されました。二千匹の豚は崖を駆け降り(かけおり)、おぼれてしまいました。なぜイエス様がこのことを許されたのでしょうか?これは無駄ではありませんでしたか?このことによって、誰かの生活が苦しくなるのではないでしょうか? そのシャロムという正しい人間関係を前に、経済的なプライオリティを見直す事は必要です。豚よりも、利益よりも、人の暮らしよりも、時には律法よりも、このシャオロムはイエス様にとって大事です。だから同じように、私たちの人生においてもそのイエス様が下されるシャロムは大事でなれなければならないのです。
このことがあって、イエス様は受け入れられなくなり、ゲラサの人は彼に離れてくださるよう願いました。一方、悪霊につかれていた人はイエス様のお供をしたがっていました。これにはマルコ3章での弟子たちの呼び寄(よ)せる時と同じ言葉がつかわています。「ともにしたい」というのは、基本的に弟子になりたいということです。しかしイエス様はお断りになりました。
いつも私はこれを、かわいそうだな、と思います。イエス様が人を追(お)い返すとは考えたくはないでしょう。なぜイエス様はうれしく思わなかったのでしょう?たぶん、それはこの人が 悪霊の声を従ったがゆえに、長い間、彼のアイデンティティを盗まれたままでいたからでしょう。彼は悪霊のレギオンとなりした。弟子とする代わりに、イエスさまは彼にこう命令します。彼のもと居た社会に戻れ、と。言い換えれば、イエス様はかれに人間関係を取り戻させてくださったのです。
その上で、イエス様は彼に役割を下さいました。人生の目的も下さいました。その人はイエス様の代理人として、彼自身の民族のために伝道者となったのです。すばらしい伝道者でした!もやは、他の声に従うのでなく、自分自身の声が大事にできるのです。しかも 神様の栄光を広げるためにさえ彼の声は大事なものになったのです。
イエス様の癒しは霊的なものです。そして、シャロムのものです。それには悪霊を追い出す力があります。人間の互いの関係を戻す力があります。十字架の血によって、神様と人間の関係を戻す力もあります。そのすべてはシャロムにつきると言ってもいいと思います。「おまえの名は何か?」それはシャロムの招きです。イエス様は今日もそのシャロムに入るように私たちを招いておられるのです。お祈りします。
恵み深い父なる神様、私たちはこの混乱した社会の中で、どこにアイデンティティを見つけるでしょうか?あなたとの関係の中にだけであります。あなたがまず最初から私たちを探し、シャロムに招いてくださったことを心から感謝いたします。私たちの魂も心も人間関係も全て癒してください。主イエス・キリストの御名、シャロムというその御名によって祈ります。アーメン。