喜びなさい、もう一同言います、喜びなさい
ルーカ5:29−39
今週、色々なおかしい、又は面白いことを行いました。一つの共通点がありました。それは喜びでした。
一番最初は先週の日曜日でした。英語礼拝ではThanksgiving,感謝祭の食事会がありました。それから、喜びと感謝について説教しようと思いました。しかし先週の日曜日は私にとって喜びにくい日でした。その前の晩は寒くて眠れなかった。そして大雨がありました。疲れて、ぬれたままで遅く教会を着きました。そして喜びについて説教するところでした。神様のタイミングは悪いなと思いました。しかし神様が多くのことをしてくださったことを考えながら、ますます感謝できることになりました。そうすると、自分の中に本当の喜びを感じました。
次の面白い出来事は語学学校でありました。日本語の先生と一緒に教会学の本を読んでいます。その人は中々賢い人だから、そういう学究的な本を一緒に論じて伝道できると思いました。その本の中では、日本の宗教観について書かれていました。それによると、この圧力が高い窮屈(きゅうくつ)な日本社会の中で、宗教は安全弁のような役割があります。だから祭りではよく変な行動が見られます。人は酔ったり、坂に落ちている木の幹に乗ったりします。日本は集団が大事な国だから、その集団のために自分の感情を制御(せいぎょ)しなければなりません。祭りの時では、その制御(せいぎょ)した感情はパっと出てきます。日本宗教の役割はそういう自分を自由に表現できる場所です。それを読んで、「キリスト教はどうだろう」と思いました。キリスト教では、そういう祭りがあまりありません。なぜかというと、この個所の35節のある不完全な解釈からだと思います。イエス様という新郎は今この地上にもうおられないから、祭りより断食(だんじき)のほうが適切と思われています。しかし初代教会は感謝と喜びを持って集まりました、又は大きな祭りである聖餐式を祝いました。新郎は暫くの間弟子たちとは離れたが、「見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方とともにいます。」確かに断食は適切だが、キリスト教は喜ばない宗教ではないと思います。
だから三番目の面白いことは本当に驚くべきことでした。今週、あるクリスチャンが私に相談に来ました。クリスチャン生活でとてもがっかりして悲しんでいました。そして、自分は元々明るい人だったが、最近、暗くなったとも言いました。なぜかと聞くと、ある宣教師から「クリスチャンは熱心で真剣な人であるはずだ。お前は軽薄(へいはく)すぎると思わないか。」というアドバイスを受けたそうです。友達と遊ぶ時は罪悪(ざいあく)を感じました。真剣になるために、聖書学びと祈りで苦労をしました。しかしその苦労の中に、神様から下さった喜びは消えてしまいました。残念だな、と思いました。
私の言うことを間違いないで下さい。信仰を真剣にするのは確かに必要だと思います。神様に対して真剣な関係を持つのは大事です。私はもっと熱心に祈る人になりたいのです。しかしそういう「熱心」「真剣」という単語を使うと、神様との関係は仕事ばっかりだと考えてしまいます。実は神様との関係は親しくて、愛を持って、感情深い親子関係のようなです。立派な信仰生活があっても他の人の前で暗くて詰まらない人物になると、なんとかおかしくなったかなと思います。なぜかというと、それは絶対証とならないからです。この世界は詰まらないクリスチャンがいらないと思います。本当に生まれ変わったことの印は喜びです。クリスチャンになったばっかりの人はほとんどその喜びを感じます。しかしだんだんその喜びを失うことが多いと思います。人生の悩みや「出る釘になった」ということの重さがクリスチャンの喜びを盗みます。しかしそういうことは決してなるというわけではありません。高橋先生を見てください。高橋先生の一番良い点はいつも微笑んでいて、喜びあふれる人のです。素晴らしいと思います。皆がそんな喜びを持てばいいじゃないでしょうか?
そして金曜日は結婚式を司式しました。そういうバイトをするつもりは全然ありませんでしたが、マルティン先生は留守の間に、一回してくださいと頼まれていました。そして、正直いうと、そんな経験あったら面白いと思いました。結婚式は近くの式場でありました。そういう式場はとても人気で、あちこちに建っています。ほとんどは伝統的な教会の形です。私が気がついたのは、そういう偽物の教会では、本物の教会よりも喜ぶ機会が多い。これはとんでもないことです!
最後には、今週の指定された個所を読みました。イエス様はレビの宴会に招かれて食べて飲みました。収税人と罪人と遊びました。そして弟子たちは断食よりも喜んで食べて飲みました。結婚式の客さんは断食より喜びます。新しい葡萄酒が来ました。聖書では、葡萄酒、特に新しい葡萄酒は喜びを象徴しています。詩編4編では、ダビデはこう言います:「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しい葡萄酒が豊かにあるときにもまさっています。」イエスさまが来たことは私たちの心に喜びを下さるためでした。
こういう全ての面白いことが頭の中にあって、喜びというのは二種類があると思いました。古い葡萄酒と新しい葡萄酒があります。一つのは、人間的な感情から自然に浮かぶ喜びです。タイガーズがホームランを打つ時、喜びます。(あまり打たないから打つ時は喜びます。)金曜日の結婚式が始まるとこで、警察から電話がありました。盗まれた自伝車を見つけたそうでした。本当に喜びを持って、結婚式をはじまることが出来ました。こういう喜びは当然、人間的な喜びです。
そしてもう一つの種類があります。新しい葡萄酒のような新しい喜び方があります。それは神様がしてくださったことを感謝して喜ぶことです。古い葡萄酒を飲んで新しい葡萄酒がいらないと言う人もあると思います。考え直す時間が必要かもしれません。
三週間前に、箱根の会議で、福田先生という素晴らしい牧師から訓練を受けました。福田先生の教会では、人がキリスチャンになるすぐ、一番最初に教えることは喜ぶことです。「神様があなたを造ってくださいました。神様があなたを救ってくださいました。神様があなたを愛してくださいました。だから、喜びなさい。」それは当然なことだと思います。実は、クリスチャンは喜ぶ使命があります。イエス様は彼の弟子たちに豊かな人生を約束しました。皆の前で喜びが豊か、詰まらなくない人生を歩むことは素晴らしい証となります。だから、皆さん、喜びなさい!
喜ぶ気がないから喜べないというのはありえないことです。「喜びなさい」という命令は聖書に何回も出って来ます。イエス様は「あなたの名前は天国に書かれていることを喜びなさい」と弟子たちに命じました。パウロはピリピ人へ「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います、喜びなさい」と書きました。
イエス様はいつもちょうどいいバランスを取りました。建前とイメージを考えないで罪人と遊ぶことを遠慮しませんでした。罪人と交わっても、罪を犯しませんでした。これはモデルですね。イエス様はこの世の中に入ってきました。32節によると、この世が罪深いだからこそこの世を入ってきました。私たちはイエス様より聖いわけではありません。私たちも遠慮なく、教会の安全な壁の外に出っていきましょう。そこで、救いが必要な人と交わってこの喜びを伝えることが出来ると思います。収税人の宴会を出席したイエス様は自分のイメージよりも、神様に前に何が正しいかということを気にしました。疚しいと思うことは他の人が何を思うかよりも、神様が何を思うかのほうが大事です。
その点でもイエス様がちょうどいいバランスを取りました。父なる神様との関係には真剣だけど、人前の生活では詰まらない人になりませんでした。実は、キリスチャン生活では、神様との関係がうまく行くなら、聖霊が人生の中に働きます。そして聖霊の実が実ってきます。その一つは喜びだとパウロが教えています。どうやってそうなるでしょうか?聖霊様が働いて、神様がしてくださったことに気がついて、感謝しながら、喜ぶことになります。神様があなたを造ってくださったことを覚えて感謝して喜びましょう。神様があなたを救ってくださったことを覚えて感謝して喜びましょう。神様があなたを愛してくださったことを覚えて感謝して喜びましょう。今週中に、もし喜びを失ったと思うなら、この練習をしてください。神様がしてくださったことを覚えて、感謝して、喜びましょう。クリスチャン人生が変わると思います。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います、喜びなさい。