裏切り者まで!
ルカ5:27−39
先月の個所で、イエス様とパリサイ人の喧嘩がありました。イエス様は病気の人を癒して、そして彼の罪を赦しました。罪の許しのは神様だけが出来ることとパリサイ人が正しく言いましたが、イエス様の恵みについての態度が悪かったのです。その癒しと赦しに喜ぶよりも、神の国の入り口を邪魔しました。
今回も同じ形です。イエス様は神の国を広げます。豊かな命を示します。そしてパリサイ人は呟いて、神の国への扉を締めようとします。しかし、前と同じように、パリサイ人はただイエス様の敵だと考えないでください。パリサイ人は宗教に熱心な者たちで、本当に神様が喜べる生活を目指す人でした。一つだけ間違いました。それは心を広くしなかったことです。寛容でないというのは、自分が救われても、救いを分かち合うことをしませんでした。神の国への扉を締めようとしまた。「敷居が高い」ということわざがあります。パリサイ人は神様の国の敷居を高めた人でした。だからこそイエス様の敵になりました。
今回では、イエス様がパリサイ人に嫌がる二つのことをしました。一つめは、収税人のレビを呼びました。二つ目は、パーティに参加しました。
まずレビのことについて考えましょう。収税人は当時も今日も人々に嫌がられる人でした。喜んで税金を払う人は今日も余いないからです。
私は大学のころ、勉強をする間に、かなり金をもうけるバイトがありました。コンピューター雑誌の編集者として、週一日を務めました。そしてイギリスで、大学生が税金を払わなくてもよい・・・と思いました。実はそうではない。イギリスの自営業は申告制ですので、二年間の間、税金申告をしなくても問題が起こりませんでした。誰も知らなかったからです。しかし私はブラックの稼ぎたと分かったとき、まあ、クリスチャンだから、法律的にすればいいと思いました。だから税理士に行って、ちゃんと税金申告を出しました。
そしてすぐ税務署から請求が来ました。三千ポンド、約七十万円でした。そして、一ヶ月の間に払わなければなりませんでした。私はそういうお金がありませんでした。「なんか正直割引がないですか?」と聞いたんですが、無理でした。まあ、正直にしなかったらいいと思いました。結局、お母さんから借りてしまいました。まだ返していません。今の収税人はあまり哀れみを見せない人です。
しかし特にこの個所の当時の収税人はもっと酷い状態でした。ユダヤ人なのに、占領するローマ政府の公務員でした。つまり占領軍隊と共謀する民族の裏切り者として見られました。この個所の収税人はレビと呼んでいます。他の福音書に読むと、同じ人はマタイと呼んでいました。多分、マタイは名前で、レビは名字、又は名字として使った民族の名前でした。レビという民族は旧約聖書で祭司たちでした。この人はイスラエル人を霊的に指導する祭司のはずでしたが、その使命から外れてローマ帝国の繰り人形になりました。完全な裏切り者でした。
それだけではなく、給料をあまり貰わなかったから、利益を得るため、不公平な収税をしました。一般の人は税法を知らなかったから、税金が正しいかどうか分かりませんでした。税金泥棒でした。
ユダヤ教では、そういう人は泥棒と同じ位置がありました。ユダヤ教の教師によると、イスラエルを占領するローマ政府の収税人に嘘を付いても罪ではありませんでした。そしてユダヤの裁判では、収税人が証人として出る権利がありませんでした。収税人もその人の家族も汚れていました。社会から排除された人でした。しかしイエス様がそういう人を呼びました。今でも呼んでいます。
このルカの福音書に行き渡っていますが、私たちが神様をコントロールできないということです。パリサイ人は神様をコントロールしようとしました。だれが神様の国が入れるか入れないかを決めようとしました。天国の門番としての役割をもちました。しかしそういうことが出来ません。神様だけが裁く方です。神様はご自分が好まれるな人を選びます。というのは、私たちが自然に仲良く出来ない人を神様は選ぶこともします。ローマ帝国に反対する扇動者の熱心とシモンとローマ帝国と共謀するユダヤ民族の裏切り者のレビは自然に仲良く出来なかったと思います。
教会では、色々な立場、素性、文化、国籍からの人が集まっています。共通点は一つだけです。それはイエス様に招かれたことです。多分、教会の中には自然に嫌いな人もいます。しかしイエス様によって、兄弟姉妹の関係があります。ヨハネの手紙を読むと、ヨハネはいつも「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合いなさい。」と命じます。なぜかというと、教会に集まっている人は自然に愛せない人もいます。時々がんばって愛し合うことが必要となります。というのは、教会は問題がない社会ではありません。パウロの手紙は全て教会の問題を解決するために書かれました。しかし、問題あっても、愛したくない時があっても、愛したくない人があっても、イエス様の家族になった教会の皆様は互いに愛し合うという使命があります。
もし教会で全く違う人が愛し合うことが出来れば、素晴らしい証となります。完全な裏切り者のレビはイエス様から受け入れられていることを感じて、全ての友達をイエス様に紹介しました。神様の国は裏切り者の収税人の世界まで広がりました。なんと素晴らしいことではないですか!一緒に喜びましょうか?
しかしパリサイ人は喜びませんでした。実は、神様の国の広がることを願いませんでした。狭くしたかったのです。宗教は聖いことで、聖い人しか入れないでしょうか?裏切り者や汚れた収税人が我々の聖い集会に入ったらバラバラになってしまうのでしょうか?イエス様はその意見に反対します。XXX v.32。イエス様は社会の一番愛しにくい者たちを喜んで招かれます。実は、イエス様の死は一番愛から外れた人たちのためでした。お医者さんは病気の人のためです。イエス様は全く愛がないという病気で死んでいる人のため来ました。私たちも含まれていることは感謝ですが、私たちだけのためだと思ってしまうと、パリサイ人とあまり違いがありません。神様の国は本当に幅広いことです。
イエス様は収税人を招いただけではなく、収税人と交わりをしました。収税人のパーティに参加しました。パリサイ人の目では、裏切り者と交わったら自分も裏切り者になります。パリサイ人の目では、イエス様は霊的にも政治的にもイスラエルを裏切っていました。なぜイエス様がこんな罪人と交わりしましたか?そうすれば、自分を汚れた者になってしまうのではないでしょうか?なぜ汚れてしまっても収税人と裏切り者と一緒に交わりましたか?答えはピリピ2章に書かれています。2:5-7. イエス様は天国より下りました。この罪深い世界にわざと入りました。英語では、「手を汚す」という表現があります。それは「真剣に関わる」という意味です。イエス様はこの世界で手を汚しました。天から下っただけではなく、社会の一番虐げられた人の所まで下りました。そしてピリピ2章では、私たちも同じ態度がなければいけません。イエス様は下る神様です。私たちクリスチャンも下らないといけません。この世の価値観と全く逆です。この世はいつも上がって行こうとします。しかし我々は下ってくださる神様を付いて行きます。
そしてこの下りに行くことは何のためでしょうか?神様の愛を見せるためであります。私たちと違う人、愛しにくい人を愛すれば、神様の国が来たの証拠です。イエス様が収税人のレビに愛を見せた時、神様の国が近づきました。多くの収税人がイエス様の福音を聞きました。大きな喜びでした。
今でも神様の国は社会の愛しにくい、又は教会の愛しにくい人にまで広がっています。私たちはそれに対する選択があります。パリサイ人と同じように扉を締めようとすることもできます。そうすれば、下りに行くイエス様と反対方向に行きます。又はイエス様の弟子のようにイエス様から招かれたいろんな人と一緒に喜び、一緒に愛し合うことも出来ます。違う人を愛する、又は愛しにくい人を愛すること。今の日本ではそういうことがありません。この世界にもありません。そういうことが出来れば、教会は本当に神様の国の証となります。そういうことが出来れば、神様の国が広がります。そういうことが出来れば、世界が変わります。