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励ましとチャレンジ

ルカ4章16−30

初めての説教をどうすればいいかはいつも難しいことです。どういうふうに語ればいいでしょうか?あるいは、どんな話題を選べばいいでしょうか?教会の人にチャレンジをするのか、又は励ますか、又は両方ともをしようとしますか?

会衆が受ける説教者の印象はそれによって異なってきます。説教者がどんなふうに自分を表現するかは自分が教会の皆にどう理解されたいかということと関係があります。教会の人は説教者を見て、彼はどんな人かと考えています。説教が長すぎる人ですか?簡単すぎるか、複雑すぎるか?この人はどのようなことを大切にしていますか?最も重要に、私は説教者の意見と賛成できますか?

つまり、この新しい説教者はいったいどんな人ですか?

今日の個所にでてくるナゼレのシナゴーグの中では、そういうような質問が飛び交(か)っていたでしょうか。このイエスという人はどんな人でしょうか?今でも、それは世界の一番大事な質問ではないか。イエスという人はどんな人ですか?今日の個所に出てくる人の立場から考えてください。バプテスマのヨハネがイエスのことをよく語りました。そしてイエスが洗礼を受けた時、なんとおかしいことがあったという噂がありました。彼が奇跡ができる預言者という噂もありました。しかし、六週間以上の間に、イエスは彼のシナゴグに顔を出していません。現代のいい方では、母教会を六週間以上サボりました。五週間は荒野で、そしてガリラヤの周りのシナゴグに教えに行きました。今、帰ってきました。母教会で初めての説教です。彼が何をしようとしますか?

シナゴグの係の人が彼にイザヤ書の巻物をあげました。今の聖書と違って、シナゴグの聖書は一冊の本ではありませんでした。本が別な巻物に分かれていました。イザヤ書を取って、イザヤ61章を見つけました。なお、その時の聖書は原語のヘブライ語で書いていました。しかし、当時の人はアラム語という言語を話しましたので、同時通訳みたいに、説教者はヘブライ語からアラム語に翻訳をしました。同時通訳だったので、私が同時通訳をする時、時々間違って、別の意味で訳してしまいます。しかし、時々わざと意味を変えて訳します。イエスさまもそういうことをしたようです。実際に言われたことを開いてみましょうか。

「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと私に油を注がれたのだから。」これはちゃんとイザヤ61章一節です。「とらわれ人には赦免」(しゃめん)あ、急にイザヤ58章に飛びました。「盲人には目の開かれること。」それはイザヤ42章です。この三つの個所は同じ人物について預言しています。「神の奴隷」という人物についてですので、イザヤの「奴隷の歌」という預言です。イエス様が三つの歌を混ぜているから、今日の個所は「奴隷の歌、イエス様ミックス」と言ったらいいではないでしょうか!そしてやっと、イザヤ61章に戻ります。「虐(しいた)げられている人々を自由にし、主の恵みの年を告(つ)げ知らせるために。」そしてイエスが座りました。

しかしひとつ入っていないことがあります。「我々の神の復讐(ふくしゅう)の日」と言いませんでした。復讐について説教するつもりではないでしょう。それなのに、イエス様が本当に面白い個所を選びました。「奴隷の歌」はイスラエルを助けるメシヤについての預言だと皆が分かりました。皆はこのメシヤが来ることを待ち望みました。ローマ帝国軍隊を追い出して、イスラエルの栄光を取り戻して、そしてイスラエルの敵を罰するメシヤを待ち望んでいました。まあ、メシヤのような人がもう何人もいました。テウダーという人は自分がモセのように紅海(こうかい)を分けることができると言いました。もう一人はガリラヤのイウダでした。しかし、両方共、ローマ軍隊の手によって死にました。メシヤをまだ待ち望んでいました。

しかしイエス様によると、メシヤというのは全く違うことです。一つの違いは、イエス様のメシヤのイメージは人間だけではないのです。それから「盲人にはめの開かれること」という個所に入りました。それは預言者や誰でもがしたことではありません。神様だけができることです。詩編146によると、神様ご自身は「盲人の目を開け、とらわれ人を解放される」方です。

そして、イエス様のメシヤはローマ帝国を追い出す人ではありません。そのために、「我々の神の復讐の日」と言いませんでした。イエス様のメシヤのイメージは貧しい人、牢獄にいる囚人(しゅうじん)、目が見えない盲人、虐げられた人のための救い主です。

しかし、自分が助けることが出来ない人を助けることだけではありません。イエス様のメシヤは神様の赦しを伝えるひとです。19節の「主の恵みの年」というのは、レビ記25章のヨベルの年ということを指しています。ヨベルの年ということは神様が造られたイスラエル人の習慣です。一生涯一回、つまり、50年毎に、ヨベルという年がありました。そのヨベルの間に、皆が自分の土地をそこに元々住んでいた家族に渡しました。全ての借金は消(け)されました。全ての奴隷は自由になりました。最初からやり直す機会でした。「主の恵みの年」というのは神様からのヨベルの機会です。神様との関係でやり直すことかできる機会です。つまり、罪の赦しのことです。

イエス様にたいする二つの間違いに気をつけなければなりません。一つの間違いはイエス様が虐げられた人の助け人だけと思ってしまうことです。イエス様は「いい人だ」と思ってしまいます。倫理(りんり)教師だと思ってしまいます。先日も、この間違いを聞きました。「イエス様が教えたことはいいですよ。貧しい人を助ける、飢(う)える人に食べ物を与える、隣人を愛するのは大事なことです。しかし神様や罪や天国、それが僕と関係ない。」それは間違っています。イエス様は教えに来ただけではありません。神様からのヨベルという許しの機会を伝えるためにも来ました。今、神様との関係でやり直すことかできる福音を伝えに来ました。イエス様は罪からの救い主として来ました。

しかしもう一つの間違いがあります。それは罪の救い主として来ただけと思ってしまうことです。イエス様が貧しい人、牢獄にいる囚人、目が見えない盲人、虐げられた人について言うことを忘れてしまうことです。イエス様の初めての説教では自分を大切にすることを中心としてます。そして貧しい人への哀れみがその初めての説教の始めにされています。我々がイエス様の弟子となれば同じ哀れみを表さなければなりません。

つまり、イエス様が聖書朗読で新しいメシヤのイメージを打ち出しました。人間であり神様であるメシヤです。社会で虐げられた人を助けるメシヤだけではなくて、神様と人間の間の新しい関係を伝えるメシヤです。それは聖書朗読だけですよ。説教はどのようなものでしょうか。イエス様は待ち望まれたメシヤのことについて話そうとされています。皆が手に汗を握るでしょう。

さて、イエス様の説教を聞きましょう。「今日、聖書のこの御言葉が、あなた方が聞いた通り実現しました。」一つきがついたのは、かなり短い説教ですね。だから会衆が喜んでいたでしょうか。今の説教はイエス様の説教よりも長くなりましたごめんなさい。しかし、どんなメッセージでしょうか。メシヤのことについて話して、「今、目の前の人です」という説教をします。どんな主張でしょうか。イエスは皆の希望と夢が彼自身に実現されたと主張しています。すべてのメシヤについての預言はイエスを差したと主張しています。メシヤを待ち望んでいた人にたいしてどんな励ましでしょうか。皆が「かれの口から出てくる恵みの言葉に驚いた」に違いありません。

しかしこんな主張をしていますが、証拠を出していません。今と同じように、イエスさまがメシヤだと信じるには信仰が必要です。

それはイエス様の励ましでした。私はあなたの救いのために来たということです。しかし、皆を励ましたすぐあと、チャレンジをしています。あなただけの救いではありません。「預言者はだれでも、自分の郷里で歓迎されません。」会衆の人の喜びはすぐに怒りとなります。なぜでしょうか?イエス様は喜べるメシヤのイメージを伝えて、さらにそれからそのイメージを広げようとしています。イスラエルのメシヤはイスラエル人のためにあるだけではありません。26節のサレペタの寡婦女と27節のシリヤ人ナアマンというのは両方共異邦人でした。シナゴグに一度も入ったことがない人です。我々を励ますメシヤと考えたら、安心です。心地よいことです。しかし、我々と違う人を励ますメシヤはメシヤらしくないメシヤです。つまり、イエス様は教会の中の人の救い主だけではありません。教会の外の人のためにも来ました。

実際、シナゴグの人はこのことをよく分かったはずです。イスラエルによって地上の全ての民族は祝福されると知っていたはずです。メシヤを預言している奴隷の歌では三回「主はあなたを国々の光とする」と書いています。しかし、イスラエルはすぐに自分の目的を忘れてしまいました。もちろん選ばれた民族でしたが、自分が選ばれたという偉い立場にいて、自分が何のために選ばれたかを忘れてしまいました。やっぱり神様の宣教のためです。神様の宣教というのは、外国へ行って宗教を伝えることではありません。全ての人に光を輝かせて、異邦人に神様の栄光を伝えることです。イスラエルはそのために選ばれました。しかし、神様の栄光を異邦人に伝えるのは難しいものですよ。異邦人は我々と違いますよ。その人に宣教をするのは汚い、危険、きつい仕事です。だからイスラエルの人は自分が選ばれたという心地よくて安心な所で自分の目的を無視してしまいました。イエス様がその無視した仕事を皆に思い起こすということは歓迎されませんでした。だからシナゴグの人が酷く怒りました。実際に、イスレルの宣教の仕事を無視したかったのです。

教会もある目的のために選ばれたでしょうか。ドイツの神学者ボンヘッファーによると、メンバー以外の人のために存在する相識はこの世界でただ一つがあります。メンバー以外の人のために存在する相識。それは教会です。教会は選ばれた人の集まりだけではありません。イスラエルと同じように、教会は神様の宣教の道具です。それはイエス様のチャレンジではありませんか。今の教会にもチャレンジだと思います。私を町の外に追い出して殺そうとしないでください。でも私は本当にそう思いますよ。教会は何のために存在していますか。教会の外の人に神様の栄光を表すためではありませんか。それは元気な教会の印です。

実は、イエス様はそれよりもっと厳しいチャレンジを出しました。預言者エリヤとエリシャの時では、イスラエルで助けが必要な人がたくさんいました。しかし、イスラエルが自分の目的を無視したので、助けられませんでした。それなのに、助けの仕事は止められません。イスラエルが異邦人に神様の栄光を表す目的を忘れたら、神様の預言者は、しかたがなく、選ばれたイスラエルを無視して異邦人を助けに行くことになります。つまり、神様は祝福したい方です。それは止められないことです。我々はその祝福の仲介物となれば、我々も祝福されています。しかし教会は選ばれた人としてそのまま何もしなくても、神様は教会以外の人を祝福します。祝福されていない人は選ばれた私たちとなります。イエス様を聞いた人はすぐ怒ったのは奇態のことにはないでしょうか。

イエス様は初めての説教で励ましとチャレンジを混ぜていました。貧しい人、虐げられた人に救いがあるというのは大きな励ましでした。神様との関係が新しくなることができるという知らせも大きな励ましでした。待ち望まれた救い主がやっと来たという知らせは大きな励ましでした。しかし、この救い主は選ばれた人のためだけではないのは大きなチャレンジでした。選ばれた人は何のために選ばれたを忘れたら神様が他の人を祝福するのは大きなチャレンジでした。

イエス様はいつもそうでしょう。いつも励ましとチャレンジを混ぜる人です。励ましを受けてチャレンジを捨てること出来ません。そして、イエス様は励ましとチャレンジと一緒に彼自身を混ぜています。イエス様ご自身を受けてイエスのチャレンジを拒絶ことできません。それはイエス様を拒絶することになります。そのナザレの人はイエス様のチャレンジだけを断りしませんでした。実は、イエス様自身を断りしました。皆さん、どうかイエスさまのチャレンジを受けてください。教会の目的を忘れないでください。他の人に神様の栄光を表してください。すると、イエス様のチャレンジを受けながら励ましを頂きます。その中に、一番大きな励ましはイエス様ご自身です。お祈りします。

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